階段の踊り場で、足を止める。手すり越しに下を覗けば、取り巻きの女が何か耳打ちしていた。
(は、ご親切なこって)
俺はそれを見ながら鼻で笑う。
2年の時に停学食らって、久しぶりに登校してみたら、校内は『オウジサマ』の噂で持ち切りだった。
才色兼備、眉目秀麗、品行方正。
チヤホヤされて浮かれている馬鹿。そいつの化けの皮を剥がしてやろうと近付いてみたが、ありゃ本物の馬鹿だな。誉め言葉の裏側にあるエゴに気付いてねぇ。
チラリと手に持ったハンカチに視線を落とすと、可愛さの欠けらも無い地味なチェック柄。確か剣道部って話だし、与えられたものに疑問も持たずに従ってるだけなんだろな
周りの奴らも気に食わない。ああいう奴らは、勝手に描いた『オウジサマ像』を押し付け、それと違う反応をされと理不尽に怒るんだよな。
(ホント、馬鹿みてぇ)
ハンカチをポケットに突っ込み、階段を昇って教室に入る。もう担任が来ていて、睨みつけてきた。
「瀬戸、もうホームルームは始まっているぞ。ただでさえ留年ギリギリなんだ、少しは真面目になれ」
虚勢を張っているが、声がぶれていて尻込みしているのが丸分かり。俺は鼻を鳴らして適当な返事で応える。
「お、おい! 瀬戸!」
担任を放置して、自分の席に足を向けると、今度はクラスメイトの視線が刺さる。嫌悪と畏怖が混じった視線には、もう慣れてしまった。
いつからだろう、こんな扱いをされるようになったのは。
昔は普通だった。友達と公園でサッカーしたり、集まってゲームしたり。
それが中学に上がった途端、チャラついた奴らが絡んでくるようになった。俺は背が低いから、制服もダボダボで弱っちく見えたんだろうな。カツアゲのいい的にされて、反抗すると殴られる。
それがしばらく続いた後、なんだかアホらしくなって殴り返したら、そいつらは呆気なく地べたに這いつくばった。
それ以降は、違う意味で絡まれる事になる。
俺に負けた奴が、上を引き連れてお礼参りに来たんだ。
でも、俺はそいつらにも勝った。
その後はご覧の通り、腫れ物扱いだ。いつの間にか不良のレッテルを貼られ、俺を頭と呼ぶ奴が群れてくる。いくら殴り倒しても、そいつらは俺に着いてきた。
そうして、俺は名実共に『猛獣』になった訳だ。
悪意が充満する教室を、俺は堂々と歩く。音を鳴らして椅子に座り、机の上に足を投げ出した。それでも誰も何も言わない。
白々しい担任の声を聞き流しながら『オウジサマ』を思い浮かべる
――あいつが、俺の正体に気づく日が楽しみだ。
俺の口元は、知らず弧を描いていた。
保健室を後にした俺は、イライラを隠しもせず廊下を歩いていた。すれ違った奴らが自然と道を譲り、まるでモーゼみたいで笑える。 だけど、俺の内心は荒れに荒れていた。何故か、別れ際にアイツが見せた表情が、頭から離れない。 アイツは笑っていたけど、どこか寂し気で、別れを惜しんでいるような、そんな顔だった。(なんで、こんなに気になるんだ?) アイツなんて、つい最近知ったばかりの胡散臭い『オウジサマ』でしかないのに。 俺はその仮面を剥がして、見た目で判断する奴らがいかに馬鹿か、思い知らせてやる。それだけだったはずだ。 なのに――! 自分を自分で押さえきれず、思いっきり壁に額を叩きつけた。パラパラと落ちる埃さえ腹立たしい。 傍に居合わせた女子が、小さな悲鳴を上げる。 イラ立ちに任せて睨みつけると、足早に去っていった。 そうだ、これが俺なんだ。 アイツのお人好しに当てられて、らしくない罪悪感を抱いてしまった。 大きく息を吐き出し、目を閉じる。 そこには何故か微笑むアイツがいて、思わず自分を殴りつけた。(なんなんだよ……!) やっぱり、何かがおかしい。あれだ、アイツが寝言でもらした言葉。 「……ゆうちゃん……」 何か、大事なことを忘れている気がする。 あいつとは、昨日が初対面であってるよな? そのはずだ、そうでなきゃいけない。
先生が授業を始めても、みんな集中できないでいるようだった。先生もそれを感じているのか、どうでもいい雑学ばかり話している。 噂を信じるなら、リスクを背負う覚悟も必要。 きっと、みんなそれぞれに考えるところがあったんじゃないだろうか。 それは嘘でも、本当でも、間違いだった時に『裏切られた』なんて言わないことだと、私は思った。 先輩の噂には何か理由がある。 それが私の考えであって、もし噂が真実だったとしても、それは信じた私の責任だ。先輩を責める権利なんてないし、先輩が私に応える義務もない。 まだ先輩に会ってから2日しか経っていない。なのに、信じるだなんていう方がおかしい。自分でもそう思うのだから、前から先輩を知っている人から見ればバカみたいなのかもしれない。 だけど、私は信じたい。 何がそうさせるのか、その理由を探すことが、私の存在意義に繋がる気さえしている。 今まで他人に口答えをしたことも無い私が、何故、先輩の悪口に過剰に反応したのか。『王子様』を求められ、素直に従ってきた私が。 窓の外に見える広場を眺めながら、想うのは先輩のことばかり。(そういえば、お昼一緒にって言ってたのに、ダメになっちゃったな……) ちらりと机にかけた鞄に目をやると、胸が締め付けられるような感覚を覚える。まだ涼しいとはいえ、陽射しは徐々に強くなってきた。半日常温で置かれていたお弁当は、さすがに食べられないだろう。お母さんにも悪い事をしてしまった。 教壇に視線を戻すと、先生が思いっきり趣味に走った話を、楽し気に語っている。先生が理科教諭を目指した、そのきっかけだそうだ。「DNAというのは
私の演説じみた話が終わると、先生がひょっこり顔を出す。それは担任でもあり、理科の担当教諭でもある江崎先生だった。 そこでハッとして時計を見ると、既に5時間目の時間に突入している。「す、すみません! 私、無我夢中で……」 慌てて席へ戻ろうとすると、先生は手で制して優しく微笑んでくれた。「いや、聞き惚れたよ。私もこの年になるまで、いろんな噂に翻弄されてきた。オイルショックはみんな知っているよね?」 先生は周囲にも目を向け、話を続ける。「最近も、米不足や増税なんかが連日テレビで報道されている。それに紛れて芸能人のスキャンダル、政治家の汚職、いろんな噂を耳にするだろう。それが悪いとは言わない。僕はただ、自分の考えを持って、自分自身で判断してほしいと思っているんだ。いい噂も、悪い噂もね」 みんなの視線が集中する中で、先生は淡々と語る。「それは学校でも同じだよ。眞鍋さんや瀬戸くんの噂は、職員室でもよく耳にするんだ。だけど、僕の知っている眞鍋さんは、少なくとも噂とは違う。新堂さんを追いかけるのは、ほどほどがいいとは思うけどね」 冗談めかして笑う先生は、いつもより頼もしく見えた。「瀬戸くんについても、僕個人としては新堂さんに賛成かな。もちろん、それを強要するつもりもないし、もしかしたら噂の方が本当なのかもしれない。だけどね、噂を信じるのなら、それ相応のリスクも覚悟が必要だよ」 それを聞く生徒の態度は様々だ。 俯く人、憤慨する人、聞き入る人。 私はじっと先生を見つめていた。眞鍋さんも同様だ。「人の噂も七十五日というだろう? 結局、その程度のものなんだよ。それでも、ただの
視線を周囲に向けたまま、私は更に続ける。「眞鍋さんも、先輩の噂が本当だって、自信を持って言える? 現場を見たりしたの?」 それは眞鍋さんだけに対する問いじゃない。勝手気ままに、無責任に噂を広げる人に対しての問いだ。 眞鍋さんの噂には、多分嫉妬や被害妄想が含まれている。1年の頃はどうか知らないけど、少なくとも2年になってからは私にずっとくっついていたんだから。それでも噂がやむことはなかった。 そして、噂は女子だけじゃなく、男子からのものも多い。これって相手にされなかった憂さ晴らしなんじゃないだろうか。そう感じていた。 だから正直に言う。「私思うんだ。もし眞鍋さんの噂が本当だったとしても、それって男子側にも責任があるんじゃないかって。例えアプローチされたとしても、本当に彼女が大事なら、他に目は移らないんじゃないかな。私、浮気する奴って大っ嫌いなんだよね」 剣道で鍛えた声量は、廊下にも十分届いているはずだ。「女子も、自分が振られた腹いせに言ってるとしか思えない人もいるよ。どれが事実かなんて、私には分からない。ただ無責任に他人を陥れようとするのに腹が立ったんだ。眞鍋さんが私を思って言ってくれているのは分かってる。だから、先輩のことも少し思いやってくれると嬉しいな」 そっと眞鍋さんの手を取り、瞳を見つめる。「噂ってさ、結局は関係ない人が流すものなんだよ。私は『王子様』なんて呼ばれてるけど、そんなんじゃない。ただの女子高生だよ。眞鍋さんが慕ってくれるのは嬉しい。だけど、クラスメイトとして接してくれると、もっと嬉しい」 そう言うと、眞鍋さんは瞳を潤ませ、遂には泣き出してしまった。その頭を撫でながら、ふとした疑問を投げかける。「それにしても……私、先輩の噂
先輩にお礼と別れを告げて、教室へと急ぐ。時計を見ればもう13時目前だ。走れば午後の授業に間に合う。 そう思って息せき切って戻ってみれば、教室の前は妙な静けさに包まれていた。通り過ぎる人達も声を潜め、チラチラと室内を覗いている。 その意味はドアを開いて分かった。 いつもは騒がしい昼休み、その隅に俯いた眞鍋さんが座っている。クラスメイト達は遠巻きにして、こそこそと呟き合っていた。 私は自分の行動の迂闊さと、影響力の大きさを思い知る。ただ学内で『王子様』と呼ばれているだけで、自分の発言が誰かを傷つけるなんて思ってもみなかった。 顔を上げ、意を決すると、ゆっくり眞鍋さんの元に足を向ける。周囲からは小さなざわめきが起き、視線が集中するのを感じた。それを無視して眞鍋さんの元に辿り着いても、彼女は俯いたままだ。 教室はしんと静まり返り、廊下から好奇の視線を感じた。 私はじっと眞鍋さんを見下ろし、口を開く。「みんなにも聞いてほしい」 真鍋さんの肩がびくりと跳ねる。 その声は、自分でも驚くほど教室に響いた。 みんなの意識が集中しているのを感じて、大きく深呼吸をする。今までだって、注目を浴びることは多かったけど、この空気感はそれとは全く別のものだ。 興味、嫌悪、ひがみ、哀れみ。 いろんな感情の渦の中で、眞鍋さんは午前中を過ごしたのかと思うといたたまれない。その原因はほかでもない、私だ。 後悔はしていない。先輩を悪く言われて、腹が立ったのは紛れもない事実だもの。それでも、眞鍋さんに対して取っていい行動ではなかったと、今なら分かる。「
榊の腕を引っ張ってアイツから離れると、小声でまくし立てた。「てめぇ、俺のことアイツに言ってみろ、ただじゃおかねぇからな!」 恫喝する俺にも榊は動じず、意味ありげに笑う。嫌な予感と、むかつきが同時に襲ってくる。 こいつは俺がサボるたびに、なんやかんやと口を出してきた。担任もとうに見放しているのに、新任の正義感なのかちょっかいをかけてきやがる。「ん~? 俺のことって何? 実は、学校一の問題児ってやつ?」 この……分かってるくせに、アイツの方をチラチラ見ながらニヤけやがって。俺が女を殴れないって知ってるから余計に質が悪い。あまり騒ぐとアイツに聞こえるし、こいつホントどうしてやろうか。 唸りながら動けない俺に、榊は意外そうな顔をする。「……あれ、なんかいつもと違うね。そんなにあの子には知られたくないの? 問題児って言ったって、あなたの場合はタイミングが悪いだけでしょう。停学の理由だって、カツアゲしてたのは他の生徒で、あなたは被害に遭った子を庇っただけ。そこをあなたに敵意を持つ担任が見つけたから、これ幸いと停学にしたんだし。新堂さんは、ちゃんとわかってくれると思うわよ?」 懇切丁寧に説明する榊に、俺はイラ立ってくる。 そんなことは分かっているんだ。別に褒められたい訳でも、感謝されたい訳でもない。俺が誰かを助けるたびに事実は歪められ、ありもしない罪を着せられる。 そして話はデカくなり、俺は意味もなく嫌がらせを受ける羽目になるんだ。 もうそれにも慣れた。 仲が良かった奴も離れて行って、今じゃ良からぬ輩の仲間入り。教室でも、いないものとして扱われる。休もうが出席しようが、成績は変わらず最下位だ。 親にも泣かれた。